カンガルーな日々

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zoom RSS 一語一語の奥深さ

<<   作成日時 : 2017/05/19 11:05  

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家庭文庫どんぐり小屋では、今年度、地元小学校の1年生を対象に毎学期一度、朝の読書タイムにおはなし会をすることになった。
1年生の全クラスに同じ話を語るのだが、初回は「おいしいおかゆ」に決まった。
来週の本番に先立ち、昨日、ストーリーテリング勉強会で語りを聞いてもらった。

結論から言えば、私の語りはボロボロだったのだけれど、昨日の勉強会では目から鱗がボロボロ落ちる非常に貴重な機会をいただけた。

正直に白状すると、私はこの話のテキストの魅力がまるで身体に入ってなかった。

貧乏で気立ての良い女の子が、魔女から小さなお鍋をもらう。そのお鍋は、はじまりの呪文を唱えるとおいしいおかゆを煮てくれて、終わりの呪文を唱えると煮るのをやめてくれる魔法のお鍋だ。ある日、女の子が出かけている間にお母さんがお鍋に向かって呪文を唱え、おかゆを食べるのだけど、終わりの呪文がわからないのでお鍋はいつまでもいつまでもおかゆを煮続け、やがて町じゅうがおかゆでいっぱいになってしまい――という話なのだが。

冒頭の「貧乏でしたがとても気立ての良い女の子がおりました」というのが、そもそも納得できない。
だって、この女の子、気立ての良さを感じさせるような具体的なセリフや行動が作中に一切出てこないのだ。
それなのに「気立ての良い」と言われても、まるで説得力がない。
「あの子、気立てがいいんだって」「ふーん、そうなの?どこが?」みたいな。
具体性がないのに字面だけで褒められても、かえってアンチ精神が生まれてしまうというか。
特に何かしたわけでもないのに「気立てが良い」という言葉だけがポンと与えられ、それで魔女から魔法のお鍋までもらってしまうのは、作者のご都合主義のような気がして、斜にかまえたくなる。

――そんな私の不信感が、見抜かれていた。

語り終えた後、何人かのメンバーさんから、「『気立てが良い』というところがスーッと流れていたから、そこをもっとはっきりと強調した方が良い」と指摘され、みなさん、なんて鋭く聞き込んでくださっているのだ、と感動すると同時に我が身を深く恥じ入った。

そして、もう一点。
この話のテキストで、私がどうしてもどうしてもどうしても引っかかって仕方がない部分があった。

【お母さんは、お鍋を止める呪文を知らない】という点だ。
テキストを引用すると、
「そこで、おかあさんは、おなかいっぱい食べてから、さあ、やめてもらいたい、と思いましたが、どういえばいいのかわかりませんでした。」という部分。

私はどうしても、ここが納得できずにいた。

始まりの呪文はちゃんと言えるくせに、なぜ終わりの呪文は「どう言えばいいのか忘れてしまいました」ではなく「わかりませんでした」なのか。

忘れたのなら、わかる。

お鍋がグツグツ煮続けて、やがておかゆが床にこぼれだし、家じゅうがおかゆでいっぱいになっても、それでもお母さんはどうしても終わりの呪文を思い出せなくて、あれ、なんだっけ。お鍋よ、終われ! いや、違う。 お鍋よ、やめておしまい! あれ、違う。うーん、なんだっけなぁ……と焦っているうちにもお鍋はまだまだグツグツグツグツ煮続けていて、そのうちお隣の家にもおかゆが溢れだして、家の前の道もおかゆでいっぱいになって、それでもお母さんは呪文を思い出せなくて、思いつく言葉をかたっぱしから唱えてみるけどどれも効かなくて、焦り、青ざめ・・・
というイメージが広がるし、ついでに言えば、この時にへんてこりんな呪文も飛び出してきたらクスクス笑えるだろう。

それに、この「呪文を忘れちゃったバージョン」なら、お母さんのキャラも見えてくる。
娘がいない間に「こっそり」お鍋を使い、なにごともなかったかのように元に戻しておくつもりだったのに、呪文を忘れちゃったから大変なことになり……という、どちらかといえば、昔話によく出てくる欲張りばあさん的、小ずるいおばちゃん的ポジション。

だがしかし。
納得のいかないことに、テキストは「忘れた」ではなく「わかりません」なのだ。
ナゾすぎる。

昨日の勉強会の時に、「なぜ『忘れた』ではなく『わかりません』なのかが分からない」と思い切って言ってみた。

すると、みんなは、即座に説明してくれた。

娘がお鍋に向かって「小さなお鍋よ、煮ておくれ」と言っているところまでは、お母さんはいつも見ていた。
ただ、その後おいしいおかゆを食べたらそれでお腹も気持ちも満たされて、お母さんはもうそこで満足しきっているから、その後に娘がお鍋に向かって「小さなお鍋よ、やめとくれ」の呪文を唱えていたことなど聞いてなかったのではないか。だから、呪文を知らなかったとしてもなんら不思議なことではないんじゃない?――とみんなは言うのだ。

なるほど!
そういうことか!!

目から鱗だった。

私はずっとずっと、「始まりの呪文は言えるのに終わりの呪文は分からないって、作者のご都合主義というか手抜きだろ」と思っていたけれど。
みんなの説明のおかげで、一気にお母さんのキャラが見えてきた。

木匙を片手に、おかゆまだかなまだかな〜と待ちわびているお母さん。
娘がお鍋に向かって何やら呪文を唱え、グツグツと音が聞こえてくると、きましたきました! お鍋がおいしいおかゆを煮てくれてますよ〜。いよっ、待ってました! と舌舐めずりするオチャメなお母さん。
おかゆたっぷりのお椀を娘に差し出され、やっほー!いっただっきまーす!なんて鼻歌まじりに言いながら、大喜びでかっこむお母さん。
あ〜お腹いっぱい。ありがたや、ありがたや。
なんて言いながらどっかりと椅子に座りこみ、お母さんはのんきにお腹ぽんぽん、なんてするのだろう。
その間に、娘はお鍋に終わりの呪文を唱えて、洗い物もして、テーブルも拭いたりしているのだろう。
けど、お母さんはきっと、つまようじでシーハー言いながら居間でごろごろとテレビでも見ているに違いない。
いや、この話の時代背景的にテレビなどないのは重々承知だが、そういうイメージ。見ている番組は、四角い仁鶴がまあるく悩みを解決します的な庶民派の番組だと思われ、きっと、テレビに向かって一人で好き勝手ツッコんだりするのだろう。
――そんなんだから、お母さんは、娘が鍋に向かって終わりの呪文を唱えているのを見たことがなかったのだ。
さしずめ、お鍋は定量のおかゆを作れば勝手に止まってくれるものだとでも思いこんでいたに違いない。

ちょっと天然ボケで、どこか子供じみたところのあるお母さん。
きっと無邪気で、底が浅いのだろう。
そんなお母さんの娘だから、素直で天真爛漫なところは引き継がれていて、裏表のないお母さんに育てられているから、まっすぐで気立てもよくて。
でも、抜けているお母さんを支えなきゃいけないから、しっかりせざるを得なくて。
そんな娘だから、森で出会ったおばあさんは、魔法のお鍋を授けてくださったに違いない。
天は、ちゃんと見てくださっているのだなぁ。
――と、一気にイメージが湧いてくる。

そうなると、だ。
冒頭の「気立ての良い女の子がおりました」にもグッと説得力が生まれてくる。

娘が心を砕いてお母さんの面倒を見ているのもわかるし、きっと日頃から一言もお母さんを責めるようなことは言わず、むしろそんな無邪気な母を穏やかにニコニコと見守りながら、せっせと家事に節約に励んでいるに違いない。
それなら「気立てが良い」のもわかるし、魔女が魔法のお鍋を授けるのも共感できる。

昨日の勉強会に臨むまで、私は、「おいしいおかゆ」の良さがイマイチ理解できていなかった。
お話を字面で覚えることはできても、「この話、おもしろいよ!聞いて、聞いて!!」というところにまで到達しきれてなかった。

でも、お母さんがお鍋の呪文を「忘れた」のではなく「知らなかった」ことをきちんと咀嚼したら、一気に、この話のチャーミングさが染みこんできた。

「おいしいおかゆ」は非常に短い話なのだけれど、単語ひとつひとつが選び抜かれている。
一語一句の重みや大切さといったものを、改めて感じた勉強会だった。






































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